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横浜フリューゲルスはなぜ消滅してしまったのか

Jリーグ実例
こんな方におすすめ
  • 横浜フリューゲルスがどんなクラブだったか知りたい人
  • 将来プロスポーツチームで働きたい人

2023年5月にJリーグは創設から30年を迎え、かつて10チームしかなかったJリーグクラブも今では60チームに増え、リーグのカテゴリーもJ3まで増えました。

しかし、そんなJリーグで唯一消滅してしまったチームがあります。

それが横浜フリューゲルスです。

Jリーグが開幕してわずか5年で消滅してしまったこともあり、当時大きな社会問題として取り上げられました。

それではなぜ横浜フリューゲルスは消滅しなければいけなかったのでしょうか?

今回はその真相に迫りたいと思います。

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そもそも横浜フリューゲルスとはどんなチーム

横浜フリューゲルスは全日本空輪(ANA)の子会社である全日空スポーツが運営していたサッカークラブにゼネコンのSATOが共同出資する形で誕生したクラブです。

発足当初は「ASフリューゲルス(ANAとSATOの頭文字)」と称していましたが、Jリーグの呼称ルール(地域名 + 愛称)に則り「横浜フリューゲルス」に改名しました。

またホームタウンも他のクラブとは違う特殊な体制をとっていました。

当時、九州地方にJクラブが存在していなかったこともあり、横浜フリューゲルスは「特別活動地域」という制度を活用して横浜、鹿児島、熊本、長崎の複数拠点をホームタウンとしていました。

このようなことができるのは、日本全国をカバーできる航空会社ANAがチームの母体になっていたことが大きく関係しております。

その後、1996年にアビスパ福岡がJリーグに昇格したこともあり、横浜フリューゲルスの「特別活動地域」の制度は廃止されホームタウンを横浜にしました。

しかし、Jリーグ発足当時から横浜のみを拠点としていた横浜マリノスには及ばない状況だったようです。

横浜フリューゲルスのチームスタイルとは?

消滅してしまったとは横浜フリューゲルスはJリーグの中でも強豪クラブの一つでした。

また1996年にはブラジル代表のジーニョセザール・サンパイオ、さらに日本代表の前園真聖山口素弘を中心に優勝争いもしておりました。

他にも後の日本代表中心選手となる遠藤康人楢崎正剛などもいました。

初代監督・加茂周監督の時代は、最先端の「ゾーンプレス」戦術を武器に1993年には天皇杯優勝も果たしています。

なぜ横浜フリューゲルスは消滅してしまったのか

そんな横浜フリューゲルスの歯車狂い出したのは1998年の頃です。

この頃日本はバブル崩壊の影響もあり、多くの企業が経営に苦しんでいました。

そして、横浜フリューゲルスのメインスポンサーである佐藤工業も苦しむ企業のひとつでした。

長引く不況のなか、ついに佐藤工業は経営不振に陥り、クラブ経営から撤退することを表明したのです。

また共同出資していたANAも赤字のため経営見直しを迫られており、佐藤工業なしに単独で横浜フリューゲルスを支えることはできませんでした。

そして1998年10月29日、ついに横浜フリューゲルスの消滅が発表されました。

正確に言うと、横浜に拠点を置いていた横浜マリノスと横浜フリューゲルスの合併とい発表でした。

この決断の背景には、何とかクラブを存続させるべきと言う考えがあり、横浜マリノスに引き取ってもらうのが良いのではないかと言う話し合いがあったようです。

そうして誕生したのが、横浜Fマリノスなのです。

奇跡を起こした横浜フリューゲルス

当時、横浜フリューゲルス消滅のニュースが流れサポーターはパニックになったそうです。

泣きながらJリーグ協会に問い合わせる人や、デモ活動を行う人、また何とかクラブを存続させたいと署名活動を行う人たちで溢れました。

スタンドには「俺たちはあきらめない」の横断幕も掲げられたそうです。

もちろん横浜フリューゲルスに所属していた選手たちも動揺や怒りを隠せずにいました。

一時は試合をボイコットする話しもでたと言います。(実際にボイコットされることはありませんでした)

しかし、選手たちが出した答えは、世間に強い横浜フリューゲルスを見せようと言うものでした。

きっと選手たちも最後に横浜フリューゲルスの意地を見せてやろうと言う気持ちだったのかもしれません。

そこから天皇杯での快進撃は止まりませんでした。

天皇杯準々決勝のジュビロ磐田(Jリーグ2位)に2−1で勝利、準決勝では鹿島アントラーズに1−0で勝利し決勝まで駒を進めました。

そしてついに決勝戦、清水エスパルスに2−1で勝利、優勝とともに横浜フリューゲルスは解散しました。

当時を振り返る山口素弘はこのように語っています。

天皇杯はいつも「負けたらどうしよう」と緊張するものなんですけど、それにプラスしてチーム消滅のプレッシャーもあって、もうガチガチでした。「消滅の瞬間を見に来ているだけだろう?」みたいな人もいたし。それでも何とか勝ち上がっていくことができました。

横浜フリューゲルス消滅のその後

横浜フリューゲルスに所属していた選手は23人中22人がJ2を含むJクラブと契約をしました。

また横浜フリューゲルス存続を願うサポーターは、1991年1月に「横浜フリエススポーツクラブ」を運営会社として横浜FCを設立しました。

日本サッカー協会は特別措置でこのクラブをこの年からスタートしたJ2の下に位置する全国リーグ「JFL」への加盟を認めました。

まとめ

Jリーグが発足された当時は、それぞれのクラブが企業に依存しない地域に根差したクラブを目指したものの、やはり企業に頼らざるえない状況だったように感じます。

そのため、今回紹介した横浜フリューゲルスのようにチーム成績がよくても消滅してしまうこともあれば、前記事で紹介した東京ヴェルディのようにクラブの規模が縮小してしまうケースが多く見られたのではないかと思います。

企業に依存するのではなく、企業と共存することがサステイナブルなクラブを作り出すのですね。

その他のJリーグクラブの実例を知りたい方はこちらをご覧ください。

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